2015年1月16日金曜日

大宰府の繁栄

「大宰府」は、唐の都・長安をモデルに都市計画がなされました。奈良・平城京、京・平安京と同じような巨大都市と役所が存在していたのですから、いかに重要な場所であったかが予想できます。
中央のメイン通り「朱雀大路」を中心に京都で見るような碁盤の目状の道路が東西南北に均等に走っていました(東西2.6キロ、南北2.3キロ)。
役所には、最高権限者の長官(帥・ソチ)以下、官人、従僕が600人ほどが勤務をし、大宰府政庁周辺では約2,000人以上の人々が居住していたとされます。白村江の戦いにより内陸に移動した大宰府でしたが、西国最大の都市として繁栄を極めました。万葉集に歌われる「遠の朝廷」は、この繁栄期の大宰府のことを歌っています。
現在は、大宰府政庁跡でしかその歴史を感じることができません。平城京、平安京に次ぐ規模の都市であったわけですから、京都のように都市権限を長く維持できていたならば西国の随一の御所が現代にも残っていたかもしれませんね。

私、このブログで、「もし〜ならば」と書き込むことが多いですね。「もし〜ならば」という仮定の話は、歴史には存在しないことです。だからこそ、逆にこうなっていればと創造することも歴史を知る上での醍醐味といえます。

次回は、菅原道真公の大宰府左遷です。

                                総務部文化推進課 日下部

※大宰府の勤務人数、政庁周辺の住民数は下記を参照しております。
  ・太宰府紀行      海鳥社
  ・万葉歌碑見て歩き  海鳥社