2015年12月21日月曜日

2015年・年忘れ太宰府寄席・音楽会を開催

霊園の社会貢献事業として、「健康・長寿2020プロジェクト」を進めております。その中の事業として皆さまに喜ばれているもの、それが「落語」・「音楽会」です。
音楽や落語による笑いや感動は「健康」によいものだとされています。霊園というととかく「暗く、さびしい」イメージがあります。私たちはそうしたイメージ拭い去り、明るく親しみやすい場所にすることを目指し、そのための事業として「落語」や「音楽会」を運営しております。
平成27年12月19日(土)、来場者250名(満員御礼)にて開催された太宰府寄席・音楽会では、真打「柳家甚語楼師匠」と九州音楽事務所「クオン」さんの高座と演奏で笑いと感動に包まれました。
霊園に「笑顔」がある素敵な日です。当日、私は司会をさせて頂きました。このような事業は、準備と片付けが大変で、当日は皆さまと一緒に楽しんでいます。クオンさには5曲お願いしておりましたが、皆様のアンコールによりクリスマスソングも演奏頂きました。少し早目のクリスマスが届いたかな、、、?落語では、甚語楼師匠に「テングサバキ」と「トキソバ」の高座を行って頂きました。またこれが面白い。
今後も、皆様に喜ばれる様々な事業を手掛けて参りますので是非、お越しください。こうした各種事業は、霊園にお墓をお持ちでない方々にもご参加いただけます。


落語・音楽会の運営を行っています!!

                                     文化推進室 日下部

天拝山登頂

天拝山は、筑紫野市にある標高257mの山です。筑紫野市にはありますが、太宰府市民にも所縁ある山として有名です。大宰府に流された菅原道真公が無実を訴えて登頂した伝説があります。以前はススキの山でしたが、黒田長政公の時代に植樹が行われ現在のような姿になったとのことです。
現在、霊園ではこの「天拝山」が見える展望台を設置中です。太宰府にある霊園としてこれまで「万葉集」に取り組んできましたが、やはり太宰府の歴史という点で「道真公」は欠くことができません。そこで、霊園から天拝山を見て頂ける場所を作り、より大きな意味で歴史を語れるよう展望台を設置することといたしました。名称は「天拝山拝観所」です。
しかしながら、、、霊園からはいくつかの山が望めます。測量し天拝山の位置を導き出しましたが、もし間違いがあってはいけない、ということで天拝山に登頂し場所を確認することに致しました。
12月18日、温度1度。早朝7:00に登頂開始。当日は厳しい寒さではありましたが空気が澄んでおり、清々しい気持ちです。
天拝山の歴史、太宰府の歴史などについて語りながら理事長、文化推進室の坂本とともに登山致しました。
天拝山山頂。素晴らしい眺望です。太宰府市が一望できます。当霊園にも眺望ポイントがありますが、ここもどうして素晴らしい。皆様も是非、登ってみてはいかがでしょうか?

天拝山。本当に人気の山ですね。



菅原道真公

天拝山山頂から眺望(博多湾方面)



天拝山山頂からの眺望(太宰府方面)
 




                                     文化推進室 日下部






















第4回太宰府市市民音楽祭2015開催!!!!!!!

平成27年12月6日(日)プラム・カルコア太宰府にて太宰府市民音楽祭2015が開催されました。会場に入りきれないほど多くのお客様が来られております。市民遺産でもある「刈萱」についての絵解きもあり、大変為になりました。
太宰府にてこれほど多くの皆様が、歌や踊りに情熱を注いでおいでです。私達、メモリアルパークもそうした皆さんを応援して参ります。
                                文化推進室 日下部

2015年11月6日金曜日

第62回菊花展

菅原道真公といえば「梅」が有名ですが、実は詠まれた歌のモチーフとしては「菊」の方が多ことをご存知でしょうか。
これに因んで、天満宮さんでは11月「菊花展」が開催されております。この菊、、、育てるのが大変なんです。知人で菊花展用の菊を育てている方がいます。一度、見学させて頂きましたが、子育て以上に気を配るとのことでした。
期間中は数十万の参拝者がこの菊を鑑賞されます。その背景には、育てておられる皆様の御苦労と、「菊」をこよなく愛した道真公の想いも感じることができます。
文化の街、太宰府。そこには受け継がれる素晴らしい伝統があります。



菊花展

                                      文化推進室 日下部

2015年11月4日水曜日

コスモスが見ごろです

太宰府といえば菅原道真公が愛された梅や菊が有名ですが、この時期は水城跡のコスモスが見ごろです。水城跡とは、663年唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍の戦い(白村江の戦い)において日本が敗北した為、国土防衛の理由で築かれた防塁です。福岡平野南端の最も狭い場所に位置し、大宰府を守護しています。
現在は、緑がこんもりした丘のイメージですが太宰府の歴史を語る上で重要な史跡として有名です。
このコスモス、、、いつからなんでしょうか?詳しくは存じ上げないのですが、週末は家族連れ等で賑わっています!!コスモスと言えば、「能古島」にもう一つ「太宰府」も追加して下さい。
お時間ある方は是非、お越しください!!

水城にコスモス

                                        文化推進室 日下部

2015年10月29日木曜日

九州国立博物館10周年記念行事②

九州国立博物館10周年記念行事として、10月21日(水)に行われました大宰府万葉会主催「梅花の宴」に参加致しました。万葉集の朗唱の会として同会が毎年主催されておりますイベントを九州国立博物館で行ったもので、当時の官人衣装を身にまとい風情ある会となりました。
皆様に愛される九州国立博物館になるよう、地元も協力していきましょう!!


梅花の宴
朗唱風景


                                      文化推進室 日下部









2015年10月19日月曜日

九州国立博物館10周年記念行事

九州国立博物館10周年おめでとうございます!!


とうとう九州国立博物館が10周年です。国立博物館の誘致は九州、そして福岡、太宰府の念願でありました。太宰府に九州国立博物館が出来るまでには多くの先人達の努力と苦労がありました。
神社の所有地を寄付された太宰府天満宮、誘致活動を行った青年会議所の皆様、市民ボランティアの皆さん、本当に頭が下がります。
17日に10周年の記念式典を経て、18日には地域交流イベント「きゅーはく市民感謝祭」が行われました。これに伴うオープニングセレモニーに参加致しましたのでご報告いたします。

九州国立博物館・館長の挨拶

 10:00〜10:10 オープニングアトラクション
 地元小学生による記念合唱 
 太宰府市少年少女東風(はるかぜ)合唱団

 ※素晴らしい合唱を聞かせて頂きました。
 
 
 10:00〜10:20
 太宰府市観光宣伝キャラクター「千梅ちゃん」ショー
 「こうめ」演舞
 

地元小学校記念合唱
※小梅ちゃんがハイテンションで驚きました。
 






   10:20〜11:00 オープニングセレモニー
   開会・館長挨拶
   九州国立博物館館長 島谷 弘幸 氏                 
   
   祝辞
   太宰府市長 芦刈 茂 氏
   太宰府市観光協会会長 不老 安正 氏
   九州国立博物館を愛する会理事長 川添 廣志 氏

   その他
   10年を振り返ってのインタビュー
   100年後の博物館を描こう絵画コンクール表彰式


               

                    文化推進室 日下部
   
   
   


2015年10月7日水曜日

万葉の街・高岡

万葉集は日本最古の和歌集です。万葉集に編纂されているいわゆる万葉故地と呼ばれる所縁の地は全国各地にございます。その中でも、都があった奈良・明日香、富山県高岡市、そして太宰府は有名です。
今回、万葉所縁の地「高岡市」にて大伴家持生誕1300年記念キックオフイベント全国万葉フェスティバルin高岡2015が開催されましたので参加しております。
また同時開催の万葉集全20巻朗唱の会も視察させて頂きました。このイベント、、、万葉集4500首を3日間で朗唱するという会です。1首1組(ないし1人)での参加です。4500首を朗唱するのに3日間とは、、、壮大なイベントです。さすがは万葉の街「高岡」です。

さて、高岡市は、大伴家持が越中国司として5年間を過ごした有名な場所です。家持は三十六歌仙として知られている人物で、万葉集に掲載されている歌の数が最も多く、また最終編纂者として知られています。今回は、下記、万葉イベントに参加致しました。
・万葉シンポジウム
・万葉故地交流会
・越中万葉バスツアー
・万葉集全20巻朗唱の会
 

 

 

高岡市・国宝「瑞龍寺」

万葉故地交流会
全国万葉フェスティバルシンポジウム
(全国から万葉集に関する活動が報告されました)

大伴家持像
(下記の歌がこの像のモチーフです)

もののふの八十おとめらが 挹みまがふ 
寺井の上の かたかごの花
 

夏の天神まつり

太宰府天満宮に祀られております菅原道真公は、旧暦の6月25日に誕生されました。これをお祝いするお祭りが毎年7月24日、25日に夏の天神まつりとして行われております。
今回は、太宰府ブランド創造協議会主催の「ゆかたde太宰府〜古都の夏〜」も同時開催されておりましたので浴衣姿で、天満宮さんを訪問させて頂きました。
当日は浴衣姿の方が多く賑わっていました。夏越みこしや浴衣コンテストとイベントも盛りだくさんです。商工会のみなさんが販売されておりました飲み物やかき氷を頂きながら散策、夜は明かりが幻想的でした。来年は皆様も是非ご参加下さい。

天神ひろば盛り上がってます

風鈴が心地よい音を奏でます
夏越おどり風景

                                           文化推進室 日下部



2015年8月4日火曜日

万葉歌碑除幕

平成27年7月25日(土曜日)、メモリアルパークに万葉歌碑が誕生いたしました。万葉集は、日本最古の和歌集として知られており、全20巻に約4500首もの歌が掲載されています。編纂時期にも関係し、当時の都(奈良)を中心とした歌が多い中、ここ太宰府に関係がある歌も多く存在しています。言わば、太宰府も万葉所縁の地となるわけです。最近、西鉄バスさんが「旅人」という電車やバスを運行されていますが、これも万葉集・大伴旅人(大宰帥)からきています。
さて、私共の霊園に何故、万葉歌碑か?と思われる方も多いかと思います。現在、霊園では「歴史と自然の公園墓地」という冠に相応しい場所となるべく、園内の植栽管理や環境改善に取り組んでおります。それと同時に公益財団移行に伴い、社会貢献事業を一つの活動に組み込み、文化推進室がここ太宰府にある文化や歴史、活動を応援してゆきたいと考えております。
万葉集は、菅原道真公以前の大宰府創建時の歴史を知る上で重要な資料です。太宰府の歴史をご紹介するにあたり避けては通れないものとも言えます。今回、万葉歌碑を園内に建立することで太宰府の歴史に触れて頂き、歴史を感じて頂く事を目的としています。建立歌碑は「大伴旅人・凶問に報ふる歌」、日本挽歌、梅花の歌、植物に関する歌の全16首となります。
「挽歌」は死者を偲ぶ歌ということで、あまり一般的には好んで建立される歌碑ではございません。しかしながら、「霊園」であるメモリアルパークでは、故人を偲び思う気持ちの挽歌は、まさにここにあってしかるべき意味のある歌であると判断し、建立となりました。
当、ブログでは除幕式の様子をアップしております。当日は炎天下の中、多数の皆様にご臨席賜りました。本当に有難うございます。多くの方々の思いも重なり誕生した万葉歌碑を是非、ご覧下さい。

※除幕式では「大宰府万葉会」様のご協力により万葉衣装を纏い行いました。この場をお借りし御礼申し上げます。
※除幕式当日は、日本挽歌一首の揮毫をして頂きました高岡市万葉歴史館館長、坂本信幸先生にお越し頂きました。遠路よりのご臨席、心より感謝申し上げます。



凶問に報ふる歌・除幕
日本挽歌一首・除幕直前

日本挽歌一首・除幕(坂本信幸先生)

日本挽歌・反歌除幕①

日本挽歌・反歌除幕②


文化推進室 日下部







2015年6月22日月曜日

宮の変遷

時の記念日のご紹介に際し、滋賀県大津市の大津宮が出て参りましたので、少し宮(皇居)のご紹介をしたいと思います。
大宰府が白村江の戦いの敗北によって現在の場所になる際の都は飛鳥でした。都の変遷は飛鳥宮(明日香村)→難波宮(大阪)→飛鳥宮(明日香村)→大津宮(大津市)→藤原京(橿原市)→平城京(奈良市)へと行われることになります。これまでに多くの遷宮が行われた背景には、天皇が変わることにより政治を司る場所を替える必要があったことや、当時の木造建築の耐久が遷宮を余儀なくさせていたなど諸説あります。ともあれ、日本最古の中国式の都市は藤原京(橿原)、大宰府と言われておりこの双方が日本の都の原型と言えるのではないでしょうか。
前ブログで書きましたが、大津は大宰府と同じく白村江の戦いに敗北後造られました。大津宮が都市形成をされた京であったか、天皇の住まいとしての宮であったかははっきりとしていません。時の帝、天智天皇による指示で造営された街として、ある意味姉妹都市??みたいな印象を受けます。大津宮は天智天皇から天武天皇に変わるとともに再び遷都され、短い期間での都でありました。
一方大宰府は、遠の朝廷として繁栄を続けますが、これまた衰退してしまいます。
街は、時の流れで変化します。まさに『盛者必衰』と言えましょう。



飛鳥寺(明日香村)
琵琶湖(大津市)
京都(平安京)
このブログでは京都についてはあまり触れていませんね。
 

                                          文化推進室 日下部
















2015年6月13日土曜日

時の記念日

6月10日「時の記念日」に、大宰府政庁跡地にて「時の記念日」行事が開催されました。
時の記念日が6月10日になった理由は、671年新暦6月10日に近江大津宮にて漏刻(水時計)が造られたことに由来します。
当時の帝は天智天皇で、この太宰府にも縁深い天皇です。663年白村江の戦いに敗北した日本は、九州の玄関口である大宰府を現在の内陸に移動させます。これと同じく、天皇の住まいである宮も飛鳥から大津へと移動させました。大津遷都には諸説あり、白村江の敗北だけが理由であるかは定かではありませんが、時同じくして誕生したのは事実です。
天智天皇が造られた漏刻は大津で始めて用いられ、この大宰でも置かれたと伝えれれています。言わば、日本最古の時計は、大津と大宰府であったということです。
さて、大宰府ではこの時の記念日行事を辰山会さんが太宰府市民遺産として守っておられます。
朝6時10分に政庁跡に集合し、記念行事が開催されます。朝早くにも関わらず、多くの皆様がお越しになっておりました。さすがは歴史の街、太宰府ですね。
こうした活動が市民遺産に認定され、地域住民の皆様で守り引き継がれている。それは素晴らしき伝統です。



時の記念日行事の様子①


舞の披露


                                          文化推進室 日下部




2015年5月16日土曜日

博多どんたく港まつり

福岡のお祭りといえば、「どんたく」と「山笠」ですね。
この「どんたく」に、太宰府市が参加しているのをご存じですか?太宰府市長をはじめ、市役所職員の皆様、自治会などの皆様が太宰府市PRの為、頑張っておられます。
総勢200名ほどのパレードになります。その中で先頭に位置するのが万葉衣装の官人です。この衣装は大宰府万葉会さんのお手製となります。
今回、私も、「どんたく」に万葉会サポートメンバーとして参加することができました。
梅花の宴、大弐紀卿 役です。
大弐紀卿は、大伴旅人邸で開かれた宴「梅花の宴」に参加し次の歌を詠みました。

正月立ち春の来たらばかくしこそ 梅を招きつつ楽しき終へめ
(意味:正月になって春がきたら梅をみて楽しみましょう)

大弐紀卿とは、紀男人(きのおひと)という名前です。大宰府の官職である大弐の紀という人という意味です。

梅花の宴で最初に詠まれた歌として有名です。当時、梅は中国から渡来した大変珍しい植物でした。その貴重な梅を愛でる会、それが梅花の宴であったと言われています。尚、この時の梅は「白梅」のみです。「紅梅」は、ございませんでした。現在の桜の花見に近い色合いでしょうか。

余談ですがこの白梅と紅梅、、枝を切るとその断面の色も違うのご存じですか?梅酒や梅ぼしなどに利用されるものも白梅だそうです。同じ梅でも違いがある。面白いですね。



パレード中 太宰府!!の声が沿道から聞こえました

太宰府市まほろばの里どんたく隊

                                           文化推進室 日下部

2015年5月1日金曜日

官人の装束

以前、このブログで歌詠みの会「梅花の宴」をご紹介いたしました。この時に着させて頂いた衣装は、大宰府万葉会さんが作られたものです。
大宰府は律令制にもとづいてつくられており、長官である帥を頂点として大弐、大監、大典とった役職があり(抜粋しています。役職はもっとあります)、その役職に応じて服の色が決められていました。一目でどの位階の方かが分かる仕組みです。
一番高い位は、紫、次いで赤、緑、青といった具合です。細かく言えばそれぞれの色に濃い、薄いがあり、同系の色でも濃い色の服を着ているものが官職が高いとなります。
下記の「梅花の宴」の画像を見てみると、様々な官職の役人がいますね。
因みに私は、深緑を着させて頂きました。役職は大監、少監といったところでしょうか。
次回、再び、この万葉衣装を着る予定がございます。次回は、、、、です。官職が上がりました。
いつか、紫を着れるように歴史と万葉集を学びたいと思います。


色鮮やかな装束

                                     文化推進室 日下部

万葉歌碑①

太宰府を歩くと、万葉の歌碑を多く見ることができます。遠の朝廷と呼ばれた大宰府は大伴旅人や山上憶良が詠んだ歌が多く残る万葉の里です。
私も好きな歌が沢山あります。例えば・・・・・
◆大野山霧立ち渡るわが嘆く息その風に霧立ち渡る        山上憶良
◆いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり   作者不詳

どちらの歌も、趣があって良い歌です。その情景が想像できます。
この歴史ブログでは、今後本格的に太宰府の名所をご紹介していきます。


太宰府市役所前の歌碑

                                      文化推進室 日下部






2015年4月8日水曜日

太宰府市文化協会主催「春の祭典」

この歴史ブログでは、歴史、観光、文化の側面から展開したいと考えております。文化面では、今この太宰府においてどのような文化活動が行われているかご紹介します。
2月に行われた万葉会主催「梅花の宴」、3月の「市民遺産会議」に続き4月4日、5日にプラムカルコアにて太宰府市文化協会主催「春の祭典」が行われました。
歌、舞、、三味線、太鼓など、日頃皆さんが頑張ってこられた成果を披露する場として、盛大に行われております。
私、今回初めて観覧させて頂きましたが、感動しました。多くの文化活動がこの太宰府において行われていること本当に素晴らしいですね。
日本美、まさに「所作」ですね。細やかな動作、美しさが存在します。
メモリアルパークは、太宰府の文化活動を応援しています。今までも、これからも多くの文化活動がこの太宰府にて花開く様、活動して参ります。

                                       文化推進室 日下部


グランドフィナーレ(大宰府音頭)

2015年3月19日木曜日

太宰府市景観・市民遺産会議報告

2月上旬に「太宰府市民遺産会議」に参加させて頂きます!!との投稿をさせて頂いておりました。実際に参加してみると、なんと多くの方がお越しで、座る席もないほどの盛況でした。

前回と同じ書き出しながら、皆さんは「太宰府市景観・市民遺産会議」をご存じでしょうか?
市民遺産会議さんのHPを見ますと、『市域に目を転じると、先人たちが培ってきた多くの文化遺産が、時の流れに身を任せるようにひっそりと佇み、人々の往来、生活とともに寄り添っています。太宰府を形づくる人・モノ・風景の中から、未来の市民に守り伝えていきたい文化遺産に光をあて、守っていきたいという自立的な活動とともに市民に提案し、多くの市民の納得のもと認められるのが「太宰府市民遺産」です。この納得するための提案と論議を交わす場、そして出来ることを持ち寄る場が太宰府市景観・市民遺産会議です』とあります。
今回の第5回景観・市民遺産会議においては、2件の市民遺産が認定されました。これまでの認定遺産には、「太宰府の木うそ」や「万葉集つくし歌壇」などがあります。
古都大宰府には、京や奈良に匹敵する歴史が存在します。そして、市民遺産たる提案材料も沢山あります。これは、すごいことです。どの市区町村さんも歴史があり、守り伝えることはありますが、太宰府は歴史に裏付けされた文化財が沢山存在します。古都として胸を張れる、そんな歴史があり、文化があります。
私達メモリアルパークもそんな太宰府にて事業をさせて頂くことができ光栄です。
太宰府市の皆さんが育まれている歴史と文化が、ここで働く私たちにも伝わり、郷土への関心に繋がっています。


景観・市民遺産会議の様子

                                         文化推進課 日下部

2015年3月17日火曜日

大宰府の終焉

12世紀になると、大宰府は荒廃していたことが予想されます。平清盛が大宰大弐になると、日宋貿易の拠点として博多が栄えることになり、政治的中心は海側へ移動しました。
元寇後には、九州統括拠点として「鎮西探題」が設置され、行政、訴訟、軍事を管轄します。ここに大宰府の統治機能は全て終焉をむかえ、海に広がる「博多文化」が花開きます。
どの都も、時代の流れとともに繁栄し荒廃します。奈良・平城京も京・平安京も時代の流れとともに首都機能を失いました。京に関しては、長い時代「帝」がおられた場所ですので、御所や寺社仏閣が多く残っています。それに比べると太宰府は、鎌倉時代から今日に及ぶ長い時の中で失われたものが多くあることが残念でなりません。
大宰府政庁跡地はその大部分が保存され、今日に至っています。復元が可能であれば、その雄姿を見てみたいと思うのは、私だけでしょうか?
ざっくりでしたが、太宰府の歴史を振り返ってみました。しかし、歴史的なものはこれに限ったものではありません。

次回より、太宰府の名所をご案内します。写真も取り入れご紹介していきますので、よろしくお願いします。

                                      文化推進課 日下部

2015年2月18日水曜日

大宰府万葉会主催「梅花の宴」

第5号太宰府市民遺産・大宰府館開館10周年記念 第19回大宰府万葉「梅花の宴」

皆様は、「梅花の宴」をご存じですか?730年正月、大宰帥・大伴旅人の邸宅にて催された歌会のことです。現在、この宴に因んで、大宰府万葉会様が「梅花の宴」という朗唱会を主催されております。当日は、読み手が当時の役人装束を身にまとい、自分で選んだ歌詠みを披露します。
今回で19回となるこの「梅花の宴」に私も参加して参りました。太宰府井上市長や太宰府文化協会会長等も参加される中、素晴らしい経験をさせて頂くこととなりました。
また、午前中には万葉かるた大会も開催され、そちらにも参加しております。進むうちに、熱気を帯び、楽しむことができました。万葉集に親しむ一日。大変有意義な時間を過ごさせて頂いたと思います。


万葉会代表松尾先生の挨拶
春なれば〜〜、うべも咲たる〜〜


春なれば うべも咲たる梅の花 君を思うと夜眠も寝なくに      壱岐守板氏安麻呂

( 意味:春になって大変よく咲いた梅の花よ。あなたを想うと夜の寝れないことです )


 
午前中には万葉かるた会がございました





                                      総務部文化推進課 日下部

 


 
 
 
 
 

2015年2月13日金曜日

ちょっと一息・文化事業推進報告

現在、霊園では文化事業を推進しています。
この歴史ブログでも取り上げていますが、太宰府は歴史ある街です。その太宰府にある霊園として文化的側面から協力できることもあるのではないかと考えています。
例えば歴史への認識を深める事。自分が働く街の歴史を知ることは、そこに関心を持ち文化の保護・育成につながると考えています。この街には、太宰府天満宮、大宰府政庁跡、戒壇院、岩屋城跡など数多くの歴史遺産が存在していますし、かの万葉集においても「大宰府」は不可欠な存在であります。
当霊園では、太宰府市育成団体(市の景観・文化を育成する団体)への申請をはじめ、ご当地検定であります「太宰府検定」や太宰府文化協会さんへの協賛等も行っています。
また、会員の皆様から頂戴しております浄財(送り火、太宰府春日神社、蓮華広場)を東日本大震災の寄付に使わせて頂いております。
お墓は、公益性の高い事業です。その為、自治体や各文化団体さんとの連携は必要不可欠といえます。
私は、文化事業推進課職員として、これからも「太宰府の歴史と素晴らしい文化」をご紹介させて頂きます。大変つたないブログで申し訳ございませんが、今後ともお付合いよろしくお願いします。

因みに・・・
平成27年2月15日大宰府万葉会主催「梅花の宴」にて万葉集の歌会に参加させて頂く事になりました。詳細は、このブログにてご紹介します。



                                     総務部文化推進課 日下部

大宰府の衰退


白村江の戦いによる敗北が、大宰府を今日の場所に移動させる大きな要因となったことは先のブログで書かせて頂きました。では、何故、そのままの繁栄を持続できなかったのでしょうか?
内陸にあることの意味は、中国からの侵略に備えてのものでした。そうした中、907年には唐が滅亡します。次いで中国を支配した「宋」とは友好な国交があり、侵略の脅威は次第に薄れていったと考えられています。防衛の水城も、防人もその意味が無くなっていきます。
貿易の外交拠点は、海側(博多)にあった為、都市機能もやがて港に戻っていくことになりました。
喉元すぎれば、今は昔・・・。
そうした中、決定的に大宰府を衰退させる出来事が起こります。941年「藤原純友の大宰府襲撃」です。関東で起きた平将門の乱と関西で起きた藤原純友の乱を総称して承平・天慶の乱と言います。平将門は有名ですが、藤原純友はあまり知られていないかもしれませんね。当時、瀬戸内海を荒らしていた海賊の討伐を朝廷より命じられた藤原純友は、この討伐に乗じて反乱を起こします。太宰府には軍隊も配備されていましたが、、、敵わず敗退。これは、既に大宰府の軍事的衰退が進んでいたことを表しています。この乱により、大宰府政庁は焼き討ちされてしまいます。政庁はその後再建されますが、この焼き討ちによる打撃は大きかったと思われます。


次回、大宰府の終焉です。

                                      総務部文化推進課 日下部

2015年2月3日火曜日

ちょっと一息・太宰府市市民遺産会議

太宰府市民遺産をご存じですか?
案内によると、市民が「未来の太宰府に伝えたい」と思う太宰府固有の物語と関連する文化遺産と、物語を伝える活動(育成活動)とを合わせて、「市民遺産」と言う、とあります。
それに関連する会議として、第5回太宰府市「景観・市民遺産会議」が平成27年2月21日(土)に九州国立博物館ミュージアムホールで開催されるとのことです。観覧無料の会議でありますので、私も参加してみようと思います。
郷土を愛すること、郷土を知ることは大切なことです。私共太宰府メモリアルパークも頭に「太宰府」の冠を付けさせて頂いております。当園ご利用者様の中には遠方からお越しになる方もいらっしゃいます。多くの方に、太宰府の歴史と文化、素晴らしいところをご紹介して参りたいと思います。
                                    総務部文化推進課 日下部

2015年1月17日土曜日

左遷の地・大宰府

太宰府が左遷の地なんてとんでもない!!と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、当時の「大宰府」は、都からはほど遠い西国であったはずです。望んで大宰府に赴任する貴族もいなかったことでしょう。
さて、大宰府で最高権力者は「帥・ソチ」と言います。官職で従三位・中納言という高い役職です。
大伴旅人のように実際に赴任後、大納言として都に戻った人もいますが、平安時代中期以降は、親王が任命され、赴任しない役職と形を変えます。長官職が高位ということから大宰府がいかに重要な場所であったかが分かります。しかし、同時に地理的要因(中央から離れている)から、中央での勢力争いに負けた人の左遷の地としても利用されるようになりました。
その中で、最も有名な方といえば菅原道真公ではないかと思います。道真公は、その才覚から天皇に見いだされ、右大臣にまで昇進されました。当時、朝廷の実権は藤原氏が握っており、その対抗馬となっていたのです。最終的に藤原時平により大宰府へと左遷されます。
道真公は、失意のもと大宰府に下り、約2年後に没したと言われています。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな

道真公が詠んだ有名な歌ですね。
因みに、道真公を埋葬した場所が、現在の「太宰府天満宮」であると言われています。

次回、大宰府の衰退について

                                  総務部文化推進課 日下部

2015年1月16日金曜日

大宰府の繁栄

「大宰府」は、唐の都・長安をモデルに都市計画がなされました。奈良・平城京、京・平安京と同じような巨大都市と役所が存在していたのですから、いかに重要な場所であったかが予想できます。
中央のメイン通り「朱雀大路」を中心に京都で見るような碁盤の目状の道路が東西南北に均等に走っていました(東西2.6キロ、南北2.3キロ)。
役所には、最高権限者の長官(帥・ソチ)以下、官人、従僕が600人ほどが勤務をし、大宰府政庁周辺では約2,000人以上の人々が居住していたとされます。白村江の戦いにより内陸に移動した大宰府でしたが、西国最大の都市として繁栄を極めました。万葉集に歌われる「遠の朝廷」は、この繁栄期の大宰府のことを歌っています。
現在は、大宰府政庁跡でしかその歴史を感じることができません。平城京、平安京に次ぐ規模の都市であったわけですから、京都のように都市権限を長く維持できていたならば西国の随一の御所が現代にも残っていたかもしれませんね。

私、このブログで、「もし〜ならば」と書き込むことが多いですね。「もし〜ならば」という仮定の話は、歴史には存在しないことです。だからこそ、逆にこうなっていればと創造することも歴史を知る上での醍醐味といえます。

次回は、菅原道真公の大宰府左遷です。

                                総務部文化推進課 日下部

※大宰府の勤務人数、政庁周辺の住民数は下記を参照しております。
  ・太宰府紀行      海鳥社
  ・万葉歌碑見て歩き  海鳥社

2015年1月14日水曜日

ちょっと一息・初詣

皆様、初詣には行かれましたか?太宰府といえば、菅原道真公をお祀りしている太宰府天満宮がございます。初詣で参拝される数は、なんと200万人。すごいですね。
太宰府天満宮は、菅原道真公に因み、学問の神様として周知されています。
初詣は「太宰府天満宮」に行く、という方も多いかもしれません・・・。
ご祭神である「菅原道真公」の「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名な和歌ですね。

現在、このブログでは大宰府の歴史について書き込みを進めています。なぜ、大宰府が現在の場所になったのか?というところまで進んでおりますので、次回は、大宰府における繁栄と衰退についての書き込みを行う予定です。
とてもつたないブログですが、歴史好きの集まるブログにできたらと考えています。今後とも、お付合いをお願いします。




太宰府天満宮

                                           総務部 日下部                                        

2015年1月8日木曜日

白村江の戦い

さて、大宰府は何故現在の場所になったのか?ということについて、今回は白村江の戦いをご紹介します。

6世紀から7世紀の朝鮮では、百済、新羅、高句麗が存在していました。朝鮮内での覇権争いは、この三国に加え、中国・唐も含めた争いとなり、660年には、百済が唐(新羅も従軍)によって滅亡します。

当時、倭国は百済と友好関係にありました。660年、百済が唐に滅ぼされると、すぐに百済再興の戦いが起きます。倭国には、百済王の太子「豊璋王」がおり、これを擁立し再興を目指しました。

援軍要請に応じた倭国は、4万以上(文献に記載がある兵力)の軍を派遣したとされていますが、唐・新羅の圧倒的な兵力の前にはなす術なく大敗することになります。
これが663年白村江(ハクスキエ・ハクソンコウ)の戦いです。
× 倭国・百済連合軍 VS  〇 唐・新羅連合軍

この敗戦は、倭国における国家体制を大きく変えることとなりました。唐からの侵略に備え、九州統括の役所は現在の太宰府市(内陸)へと移動します。
これが現在の場所に大宰府が存在する理由となるのです。内陸側に移動した九州の都、そしてそれを守護するために水城や古代山城が築かれました。見張り番としての防人もこれによって配置されることとなります。
因みに、この頃、倭国は国号を日本に定めます(701年大宝律令)!!日本誕生。

この敗戦が招いた危機は、本当に大きかったようです。それは、大宰府を内陸に移動させただけではなく、都そのものを難波から近江へと移したことからも想像できます。最終的に唐の弱体化にも助けられこの防衛体制は杞憂に終わりますが、大宰府に与えた影響は本当に大きいと言えます。
これがなかったら、、、、、博多は太宰府かもしれませんね。

                                           総務部 日下部